神仏分離は厚木から始まっていた!

御承知のように明治元年岩倉具視が出した太政官符、神仏判然令ですが、その前に薩長の江戸攻略の作戦は始まっており、どうしても江戸城を攻撃したかった西郷隆盛は江戸の三方を囲んで騒乱を起こす計画を立てましたが、結局成功したのは荻野山中陣屋焼討事件でした。
これは相州(神奈川県)愛甲郡荻野村は譜代の旗本領(特に徳川家から信任厚い大名)で、当時相州は江戸からも近く重要な街道も備えていることから謀反のリスクを下げるために、小さく、たくさんの藩に分けていましたが、この相州荻野は荻野山中藩という藩があり、小さい城(陣屋)があり、領主は小田原の大久保家でした。
が、この大久保家が甲州街道(現・国道20号線)の警備にに出かけている隙に薩長の郎党数十名で陣屋に放火し、薩摩藩邸へ逃走したというものです。
しかしこの一行、相当な放火魔だったらしく、この事件の前には現・大和市で、その次は現・厚木市内に火を放ち、狼藉を行っています。
特に厚木の大火は有名で厚木宿に大規模な火災となって天王社、稲荷社、山王社などことごとく焼失しました。
そうしてわざとわかりやすく薩摩藩邸に逃げ込むことによって、幕府から下手人を差し出せ、さもなければ薩摩藩邸を攻撃する、という作戦に導いたのです。

幕府は目論見通り、薩摩藩邸を攻撃しました。

ここに西郷隆盛は、『攻撃されたから報復する』との宣戦布告の口実を得ることに成功したのです。

しかし、前述の放火の一団の中に何故か、何故か、な・に・ゆ・え か、権田直助(という国学者・医者・阿夫利神社宮司)が入っていたのです。

権田直助は尊敬する人もいる一方、乱暴なやり方で神仏分離を強行した人として恨んでいる人もかなりいます。

なのでこの戊辰戦争になる以前から、神仏分離をする算段がすでに建てられていて、さらにその中に若き日の権田直助も入っていたのでしょう。

これも日本の近代歴史の一幕でありました。