畿内の二十二社と畿外の総社・一之宮について

現代では近畿地方と言われていますが、その昔は畿内五カ国と呼ばれ、京を中心とした5カ国は別格扱いでした。
平安時代末期に畿内に於いて朝廷から勅使が参向、もしくは神祇官から直接に幣帛(へいはく=おそなえ)が下賜される22の神社を二十二社と呼ばれるようになり、奈良時代からの延喜式(という古代の法律)に規定される古代官社制度に代わる平安末期に出現した中古官社制度です(ここで言う官社とは平安朝の神祇官が直轄するという官社で、明治以降のそれとは異なります)。
この二十二社京都御所に巍然と君臨する帝を中心とした貴族社会によりその重要性を担保された国家の神でありました。

しかし同時に地方行政では国司が各国を司るうちに土着化し、国府(こふ=現在の県庁)を中心とした地方行政が進み、やがては幕府による全国の地方統一となって行くのですが、この過程で出現したのが諸国一宮(しょこくいちのみや)(正確には「之」は入りません)の制なのです。
ですので一宮には地方神的性格と併せて農耕の神、また武芸の奉納も必ずありました。即ちその地方を代表する神社であり、最初は国司(朝廷から派遣された知事=六年任期)が任国に到着すると在庁と呼ばれる地方公務員数十名で任国の主要な神社を巡拝しましたが、平安末期以降から国司は任期を過ぎても帰京しなくなり、国府は税を蓄え初め、地方が力を持つようになり、巡拝もやがては国司が赴くのではなく、神様が神輿に乗って国司の近くの神社に集まるようになるのです。
そこには一見すると「神様に参らせるとはずいぶん横柄だな」とも受け取れますが、各神社側にしてみれば、用田(ようでん)・神領の安堵を約束させるために競って国府に押し寄せるという、強訴(ごうそ)のような背景もあるようです。
強訴とは神輿を奉じて神領安堵・拡大を求めて武装した神主・僧侶が国府や時には御所に押し入り、交渉がまとまらない場合は神輿をそのまま投げ入れ、帰ってしまうという事もよくありました。
現在でもいたるところに「用田」や「公田=くでん」「公所=ぐしょ・ぐぞ・くんぞ」などの地名は中世の痕跡です。
所領の石高の順に一宮、二宮、三宮、四宮、、、と続きます(各国の大きさによっては六宮とかあるようです)。
また、国府に関する祭が端午節(五月五日)に集中しているのは、当初の巡拝開始が端午節だったからです。

という訳で、平安時代畿内五カ国には一宮の制は無かったのですが、やがては一宮を名乗る神社も出てくるようになった、ということです。

※一応、当説は下記の先学諸先生の御研究を中心に、尚且つ滝音能之先生(駒沢大学教授)の御意見を踏まえつつ、私が研究した学説です。
宮治直一 先生
井上寛士 先生
伊藤順一 先生
西田長男 先生
梅田義幸 先生
浅香幸雄 先生
他 先学者 各位