風土記と風土記稿について
日本は意外と広く、古代の朝廷は統治上各地の地勢・風土などを知るために『風土記(ふどき)』の提出を命じました。
その後、江戸幕府が各地の地勢・風習を知るために昌平坂学問所(のちの東京大学)を通じて編纂を命じたのが風土記稿であり、一般に『新編○○国風土記稿』としてまとめたものです。この風土記稿も出来・不出来は地域によって様々で、主に旗本領である武蔵と相模のものが良く出来ているものとして有名です。
この風土記稿は近世の各地の地勢・風習を知るのにはとても信頼できるもので、私たちにとっては身近な第一次資料となります。
この稿は各地の宿場のことや祭りのことなどの詳細が記してありますが、江戸時代の中~後期の内容が多いので、古代を知るには多少無理がありますが、祭礼由来などには興味深い記録が多く収録されています。
しかし当の昌平坂学問所は学派の争いによって、その中心となっていた湯島聖堂の孔子廟は国学派=神道派によって儒学派が弾圧され、祭祀ができない状態になってしまったので、孔子の祭りを本来は儒教祭式で行っていましたが、現在では孔子廟を神道祭式で祭っています。